2012年3月14日水曜日

アレクサンダー大王

『アレクサンダー大王』(テオ・アンゲロプロス/1980)新文芸坐で鑑賞。

てっきり時代劇かと思っていたら、舞台は20世紀が始まったばかりのギリシャ。アレクサンダー大王を自称する男が義民を従えて蜂起するという話だった。

上映前、プリントの状態が悪いというアナウンスのあった通り画面は赤く焼けてたが、それでもアンゲロプロスの画はやはり圧巻。そして、長い…。

長い長い長い、長い長い長い長い長い。長い長い桟橋をゆっくり歩くように、痺れを切らして走ろうと思ってもそうはさせてくれず、カメラはあくまで執拗に目の前の風景を記録しつづけ、鈍重に視点を360度めぐらせる。直前に食べた牛丼が祟ったかどうしようもなく眠くなる。なす術もなく、2度ほど寝る。

というわけで、内容については認識が欠けているところがある。強大な影響力を持つ外国と自国の政府に叛旗を翻したアレクサンダー大王を中心とする共産主義およびアナーキズムを思想的背景にもつ集団の闘争は、始めのうちうまく行くようにも見えるが、そのうち崩壊してゆく。それも内部から。カリスマ的リーダーであるアレクサンダー大王の行動は混迷し破綻していき、民衆は大地主から土地の権利を奪還したとたん所有をめぐって激しく争いはじめる。その中でも、集団の熱い支持を集めていたアレクサンダー大王が突如として恐怖政治を敷く独裁者に変貌するさまは目を見張る。何故そんなことになるのか理由が解らない(寝てたからかも知れない)。ロジックが破綻していて、しかしその生態はリアルである。絶望感に満ちた映画だと思う。

アンゲロプロスの長回しは賑やかだ。楽団がよく出てくるし、踊る人や騒ぐ人、集団を好んで撮る。しかし、その視点は賑やかさに没入することなく、一歩引いて、悲しげに、執拗に見つめ続けている。そして、その静かな視点を取り囲む寒々とした自然、廃墟と生活が入り交じったような奇妙なコミューンの建築物(まさかあれはセットなのか?)。天才的なロケーションの嗅覚と、物や人や動物を映して異物に変容させてしまうような画こそがアンゲロプロスの最大の魅力だとあらためて感じる。長回しで寝たからといって鑑賞になんら支障はないのだ(言い訳)。

今年が始まってすぐ、新作の撮影中にバイクではねられて亡くなるという最後を迎えたアンゲロプロスに蓮實重彦が追悼文を寄せている。その中に、名前は伏せると前置きし、未完の遺作を完成させるべき監督は日本人の中にいるとある。誰だ。アンゲロプロスの特徴的な画から考えると、やっぱり黒沢清なんでしょうか。

ちなみに、本作を観ながら、タランティーノがリメイクしたら面白そうだなと思った。現在製作中の『Django Unchaind』とか、こんな感じじゃないのかな。どんな感じだよ。

2012年3月12日月曜日

ニーチェの馬、雑感

書き残したこと、あとから考えたこと。

この映画は、神が6日間で世界を造ったという起源を逆にして、世界の終わる6日間を描いたものだそうだ。そして、タル・ベーラという監督の最後の作品でもあるらしい。

その最後に終末を撮ったのはなぜか興味がある。といっても、監督の個人的な理由とこの映画のテーマの連関についてではない。タル・ベーラの映画を観るのは初めてだし、終末を描いた映画はほかにもある。気になるのは、この映画で描かれる終末がとにかく徹底的に終わっているからだ。

徹底的に終わっている終末を撮る意味は何か。あのラストシーンの後の親娘の運命は、おそらく破滅だろう。そしてそれを観ているこちらの運命もほぼ同じな可能性が非常に高い。登場人物と観客たちを分け隔てなく待ち構える最終的な破滅を前にして、徹底的に終わっている映画を撮りそれを観る行為とは何なのか。

と考えると、すべてが消えてしまうその直前まで存在しているのは意志なのではないか。記録しようとする意志、記憶しようとする意志。過酷な環境の中で、ただ食べるだけ、ただ寝るだけの生活を延々とつづけるしかない人間が終末を前にして最後の最後に頼るもの、当人だけでなく当人を囲む世界全体が依拠するもの。

この映画はたぶんもう二度と観ることはないんじゃないか。ソフトは発売されるだろうが、家庭用のモニターではまず場が持たないだろうし、もう一度映画館で観る気にもなれない、と鑑賞中からすでに思っていた。これが最後だなと思いながら気合いを入れて観た。にもかかわらず、途中、数分ほど寝た。親娘が家を捨ててどこかに行こうとし、また戻ってくるシーン。

YouTubeで東京フィルメックスでのタル・ベーラのインタビューを見た。身振りが大仰な勿体ぶったおじさんだった。観客の質問に答える言葉が懇切だった。

娘が流れ者から貰う書物、あれはルターの著作なのかな。既存の宗教を弾劾するような内容だったけど。

以上、雑感。

2012年3月4日日曜日

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』とIMAXと

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード/2011IMAXデジタルシアターで鑑賞。

IMAX初体験@としまえん。スクリーンの高さ、視野に覆い被さってくるように横にひろく湾曲する画面。本編の始まるまえに流されるIMAXとは何ぞやという能書き映像や予告編からしてすでにワクワク、およびドキドキがとまらない。幼少の頃に映画館に連れて行ってもらい、ポップコーンを食べながら緞帳の下りた(記憶では昔の映画館には緞帳があった)舞台前面を見上げていた感覚がよみがえってくる。

そして始まった本編も、幼い日の体験を裏切らないアクション映画を観る喜びに満ちたものだった。ストーリーは至極明解。悪の親玉がちょっとどうかと思う思想を背景に世界を破滅的な状況に陥らせようとするが、それがあまりにも常識外れなので常識的な人たちの組織は機能しなくなる。というか、悪の親玉の思惑通りに殺し合いが始まろうとする。世界の危機を阻止するべくイーサン・ハントを中心とする、たった4人のチームが奮闘する!

世界一高いドバイの超高層ビルを舞台にした高所アクション、砂嵐の中の追走劇、そしてお約束の絶体絶命のクライマックス。手に汗を握って画面を見つめたのはいつ以来だろう。

最近のトム・クルーズを見ていると、『ラッシュアワー』の頃のジャッキー・チェンを見るような気がする。輝かしいキャリアを積んで年は食っているけど、今が一番おいしいのではないかな。やや垂れ下がった大胸筋や後姿の腰周りとか…ごくり。