『アレクサンダー大王』(テオ・アンゲロプロス/1980)新文芸坐で鑑賞。
てっきり時代劇かと思っていたら、舞台は20世紀が始まったばかりのギリシャ。アレクサンダー大王を自称する男が義民を従えて蜂起するという話だった。
上映前、プリントの状態が悪いというアナウンスのあった通り画面は赤く焼けてたが、それでもアンゲロプロスの画はやはり圧巻。そして、長い…。
長い長い長い、長い長い長い長い長い。長い長い桟橋をゆっくり歩くように、痺れを切らして走ろうと思ってもそうはさせてくれず、カメラはあくまで執拗に目の前の風景を記録しつづけ、鈍重に視点を360度めぐらせる。直前に食べた牛丼が祟ったかどうしようもなく眠くなる。なす術もなく、2度ほど寝る。
というわけで、内容については認識が欠けているところがある。強大な影響力を持つ外国と自国の政府に叛旗を翻したアレクサンダー大王を中心とする共産主義およびアナーキズムを思想的背景にもつ集団の闘争は、始めのうちうまく行くようにも見えるが、そのうち崩壊してゆく。それも内部から。カリスマ的リーダーであるアレクサンダー大王の行動は混迷し破綻していき、民衆は大地主から土地の権利を奪還したとたん所有をめぐって激しく争いはじめる。その中でも、集団の熱い支持を集めていたアレクサンダー大王が突如として恐怖政治を敷く独裁者に変貌するさまは目を見張る。何故そんなことになるのか理由が解らない(寝てたからかも知れない)。ロジックが破綻していて、しかしその生態はリアルである。絶望感に満ちた映画だと思う。
アンゲロプロスの長回しは賑やかだ。楽団がよく出てくるし、踊る人や騒ぐ人、集団を好んで撮る。しかし、その視点は賑やかさに没入することなく、一歩引いて、悲しげに、執拗に見つめ続けている。そして、その静かな視点を取り囲む寒々とした自然、廃墟と生活が入り交じったような奇妙なコミューンの建築物(まさかあれはセットなのか?)。天才的なロケーションの嗅覚と、物や人や動物を映して異物に変容させてしまうような画こそがアンゲロプロスの最大の魅力だとあらためて感じる。長回しで寝たからといって鑑賞になんら支障はないのだ(言い訳)。
今年が始まってすぐ、新作の撮影中にバイクではねられて亡くなるという最後を迎えたアンゲロプロスに蓮實重彦が追悼文を寄せている。その中に、名前は伏せると前置きし、未完の遺作を完成させるべき監督は日本人の中にいるとある。誰だ。アンゲロプロスの特徴的な画から考えると、やっぱり黒沢清なんでしょうか。
ちなみに、本作を観ながら、タランティーノがリメイクしたら面白そうだなと思った。現在製作中の『Django Unchaind』とか、こんな感じじゃないのかな。どんな感じだよ。