2023年10月8日日曜日

「タンゴ」食いかけのハンバーグについて

じゃがたらの「タンゴ」は完璧な楽曲である。

 ニ十数年前の或る日の夜、一晩中、東の空が白むまでリピート機能を用いて聴き続けたことがある。多分三百回ぐらい聴いたと思う。

 これを書いている今もリピート機能を用いて、繰り返し聴いて、書いている。

 実に不思議な曲で、色々と不思議なところがあるのだが、もっとも不思議なのは聴いているこちらの感情が、どういう感情なのか、よく解らないところである。よく解らないので何度も何度も聴く。クセになるようなところがあるようである。

 まず、前奏みたいな音がある。べつにキャッチ―なものではなく、ジャズ演奏家が演奏前に試し弾きをするような感じでギターとベースが奏でられ、次にドラムが叩かれ、次にボーカルが「ワンツースリーフォー」と唱える、そしてこの楽曲の主旋律が提示される。この主旋律は、ずっと主旋律のままである。最後まで変奏や間奏らしきものは演奏されない。この主旋律にのせて、ボーカルが歌詞をうたうのである。ただそれだけの、シンプルな楽曲である。

 一般的にひとまとまりの作品には構成というものがあり、序破急とか、序論本論結論とか、あるいは起承転結という構成がある。作品だけに限らず、一般的な人の書き方とか、人の話し方というものにおいても、この構成は必然的みたいな感じに備わる。なんとなれば作品、書き方、話し方というものの目的は人に何かを伝えるためのものであり、この構成の基本を守ったほうがその目的を達しやすいからである。

 しかし「タンゴ」は、この構成というものとは別の次元で鳴っている音楽のようである。かといって、この楽曲は難解なのでもなく、前衛的なものでもない。解らないことは色々とあるが、語られている音も言葉も明瞭である。

 歌詞の内容は、覚醒剤を使用している人の感覚を語っているものである。舞台は都会、東京である。この作者は東京のどこかで「夜を汚そう、白い粉で」と詠っているように、実際に覚醒剤を使用していたのだと思われる。

 舞台は東京だが、この詩を唱える人の声の背後には、首都圏を越えたひろがりがあるようである。その血には歴史の脈があり、全国津々浦々の生活の影が見受けられる。このような表現は、余情と呼ばれ、あるいは余韻と云う。

 さて、

「ゴミの街に埋もれた、食いかけのハンバーグ」

 というのが問題の歌詞である。

 問題というか不思議な一部分である。

 「タンゴ」の歌詞全体には、叙事詩的な意図は見られない。ほぼすべて叙情において作られている。おそらく作者はこの歌詞を作る際、これまで見たり聞いたり、読んだりしたものは一切参考にしていない。作者の興味は、そのときの、自分の感情のみのようである。感情そのものになっており、ゆえに幻想的である。

 幻想というものは誰でももっているもので、たとえば人は訳のわからぬ夢を見る。人の夢の話というものは一般的に退屈で、よくわからないものとされる。というのも、その話の語られる経緯において、一般的に共有される根拠は示されず、突拍子もなく場面が入れかわったり、起承転結の順番も滅茶苦茶であったりするからである。

 「タンゴ」の語りは左の順番である。さいしょから箇条書きにする。

 

1. 都会の空を見上げている(多分主人公が、夜に)

2. 僕といっしょに覚醒剤をやろう(呼びかけている相手は女か、男か、不明、しかし人間であると思われる)

3. しっかり注射しよう

4. ゴミの街に食いかけのハンバーグが埋もれている

5. あなたの手から落ちて地面に吸い取られた(ハンバーグが)

6. しっかり、狙いを定めて、笑ったままで注射をしよう(覚醒剤を)

7. 三つ数える前に、あなたは、天国へと行く

 

 以上である。

これらの歌詞は、言葉としては簡潔、明瞭であるが、全体として何が言いたいのかはよく分からない。メッセージ性が希薄なのである。

中でも、聴取者にとって、箇条4の「ゴミの街に埋もれた、食いかけのハンバーグ」というのが、もっとも不思議な歌詞であると思われる。

というのも、歌詞は、

「あんたの、手から落ちて、まわりめぐって、地面に、吸い取られた」

と続くからである。

「手から落ち」るのであれば、ハンバーグではなくハンバーガーの方が適当な感じがする。一般的にハンバーガーは手掴みで食べる、しかしハンバーグは手では食べない。ナイフ、フォーク、あるいは箸を用いて食べる。その点に置いて疑問が生じるのである。

 あるいは素手の延長としてのナイフ、フォーク、箸を含めての「手」なのかとも思うが、矢張り変な感じは残る。

そもそもこの歌詞は一般的な整合性とは違う次元で作られている、感情であり幻想世界の記録である、しかし、だからといって何でもありというわけにはいかない、もし芸術作品において何でもありなら、形としては何も残らない、作品として成立するからには人として最低限の筋を通さなければならない。

「ハンバーグ」と「ハンバーガー」、どちらが適当なのかは勿論聴取者は分かっている、「ハンバーグ」である。「ハンバーグ」は韻文で、「ハンバーガー」は散文である。

 論理的には「ハンバーガー」の方がふさわしい。しかし、歌としては「ハンバーグ」であることが圧倒的に必然なのである。それは分かっている。その上で「手から落ち」るのが何故「ハンバーグ」なのかと、聴いている身としては考えるわけである。

 もしかすると「あんたの手から落ちて」の「あんた」は子どもなのかもしれない。子どもは手づかみでハンバーグを食べることもある、そしてそれを落とすこともある。

 となれば、箇条2で歌うように、この作者がともに覚醒剤を使用しようという相手は、子どもなのであろうか。もし子どもであるとするならば、子どもには覚醒剤は不要であると思われる、手づかみで食べ物を持つような子ども(二、三歳ぐらい)は、そもそもテンションが高く、感情の流出も自然そのままで、薬物を使用する必要性はない。

 とすると、覚醒剤を必要としているのは、この作品においては作者のみで、子どものようになるために、あるいは子どものように話すために注射をするのかもしれない。

 この歌は韻文である。韻文としては明らかに「ハンバーグ」のほうが適当である。「ハンバーガー」は不適当である。口ずさめば、誰にでも分かる。

 しかし「手から落ちて」という、文章としての論理的な繋がりから考えると「ハンバーグ」は不思議なので、聴取者として筋を通そうと考えると、右の次第になるのである。

そして、その考えは次の思考にも繋がる。

 結論としてこの歌は「天国」となる。天国というのは基本的に死後の世界とされており、これをそのままに捉えるとすると、作者と「あんた(他者)」は薬物注入後、死ぬみたいな感じになる。

 ややこしい話だが、この歌の歌い手は、聞いたところによるとオーバードーズで死んだらしい。その事実が、一見するとこの楽曲にも陰影を与えて、まるで辞世の句みたいな具合になっている。この歌は「死」をうたっているような感じになっているのである。

しかし、この楽曲を何百回と聴いた聴取者としては、異議がある。

というのも受け手には、受け手としての信念というものがあり、

歌は数あれど、

この世は、生きる価値がある、

というもの以外は、聴取者は求めていないし、求めてもいけない。

この世は苦の世界である、そんなことは分かっている、

愛するものと別れる、憎いものと会う、求めるものは得られない、自分の心も体もままならない、

分かっている、

そもそも生まれたことが間違いだ、そんなことも分かっている、それでも生まれたのが聴取者だ、

この世は、生きる価値がある、

嘘でもいい、それを断言するのが作品を残す人の役目ではないのか、筋を通すと、こうなる。

 

歌詞に戻る。

「天国」というのはなにも死後に限らない、天国のようなという比喩表現も成立する場合がある、現世の苦の世界の一瞬であっても、

 音楽というのはそのような「天国」を、その場に、即時的に顕現(けんげん)させる可能性をもっとも持つ表現形式である。だから人は音楽を聴くし、演奏し、歌うのである。

 

 しかしこの「タンゴ」というのはつくづく不思議な楽曲で、聴いているこちらの感情が掴めない、喜びではないし、怒っているのでも悲しいのでもなく、楽しいといえば楽しいが、地味である。

 また、何を言いたいのかもよくわからない。

 説明が少ないので、あまりイメージも浮かんでこない、俳句で云うところの景色が無い。

 何となく見えてくるのは暗い部屋のようである、作者は1人でいる、それだけである。

 それだけなので、それなら今自分のいる部屋と歌の情景はシンクロする、なのでこの部屋にいま鳴っている歌は、まるでこの部屋と、この部屋に居る自分をうたっているようである。

 しかし、だからといってそれが何なのか、よくわからないのである。

 もしかすると、「あんたの、手から落ちて、まわりめぐって、地面に、吸い取られた」という、手から落ちたものはハンバーグではないのかもしれない。

 今気づいた。

 しかし、だからといってそれがどういう意味なのか、全然わからないのである。

令和五年十月八日