2015年5月24日日曜日

笙野頼子の「所有」について

 笙野頼子作品には現代をアクチュアルに批評し、批判する新鮮なキーワードがたくさん散りばめられている。「仏教的自我」とか「流通」とか「おんたこ」とか。

 「仏教的自我」は、太古から連綿と受け継がれてきて現在もアップデートをしつづける生命の根源からのエネルギーである。「流通」「おんたこ」は、これも太古から延々と繰り返される抑圧の正体を暴く名付けである。というのがわたしの解釈。

 そういった肯定と否定(批評・批判)のどちらにも属せず、まんなかへんでふらふらとしていて、つかみどころのないキーワードに「所有」がある。『金比羅』や『おんたこ三部作』その後の作品を読んでいて、いちばん解らないのがこの「所有」という言説であった。

 というかこの疑問に対する答えは実は何となく察しはついていた。

 「所有」することは、生命の根元的な在り方でありつつ、批判するべき対象でもある。「所有」について語る時、笙野頼子は千葉にある一戸建ての自宅について語っている。「所有」について語るとき、とくに批評するとき、一般論はまるで根拠を持たなくなる。「所有」は、あくまで個人的な経験体験に依拠している。

  数年前に笙野頼子作品を集中的に読んでいた頃、わたしは賃貸アパートに住んでおり、土地家屋はもちろん、貯蓄や株式、車などといった財産は一切もっていなかった。自分が「所有」しているという意識はまるでなかった。わたしは当時、自分は何も持っていないと思っていた。しかし、このことについてしばらく考えていると、自分が唯一所有しているものがあることに気がついた。子どもである。当時、2歳の男の子をわたしは持っていた。この子を、わたしはどこまでもわたしのもであるという生物としての確信を持っていた。 と同時に、その確信は十年もしないうちに反駁され、打ち砕かれ、ふらふらと揺らぐ幻想だということにも気付いていた。と、気付いていながら、それでもこの所有の確信は、わたしが死ぬまで消えない決して消せない確信だと確信した。

 「所有」について、わたしの個人的な経験体験から理解しようとすると、こんな感じになる。子どもを所有しているということは、生きる喜びでありながら、あくまで自分とは別個の生命体に対する権利の侵害でもある。その罪の深さに気付いていても、確信は絶対に変わらない。自分ではどうすることもできない。わたしの両親にしても、いい年した中年男のわたしに対して、いまだに所有物だと見なしているフシはある。フシというか確実にそう思っているだろう。

 肯定と否定、批評・批判と自戒が交差する点としての「所有」。笙野頼子のいう「所有」の構造はこういうものではないだろうか。

2015年5月17日日曜日

見えない最貧困女子を目の前に書くラブレター

 『最貧困女子』鈴木大介を読んだ。昨今拡大する働く女性の貧困層に取材したノンフィクションである。

 著者は、貧困に陥る要因として「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」の「三つの無縁」、「精神障害・発達生涯・知的障害」の「三つの障害」をあげている。 「三つの無縁」、「三つの障害」のうちのどれか一つではなくいくつかの要因が絡み合って貧困を生み出していると考察している。

 なかでも「三つの無縁」をすべて背負っている少女たちは地域から逃げ出すように大都市に出る。頼るものは何も無い。警察や行政に保護されたとしても彼女たちは貧困や凄惨な虐待が待つ家に戻されるだけである。

 大都市の路上には私的なセーフティネットがある。ホストやスカウトなどのセックスワークの周辺にいる者たち、買春目的の男たちである。セックスワーク周辺では少女に住むところや携帯、健康保険などを用意するフル代行業者という存在まである。かれらは低金利で少女たちに融資もする。そして少女たちが18歳になったらセックスワークに従事させ、出資を回収する。青田買いである。私的セーフティネットは少女たちをセックスワークに捕捉する。

 この私的セーフティネットからも洩れる少女もいる。容姿の美醜によって、あるいは 「精神障害・発達生涯・知的障害」の「三つの障害」を負って社会生活を営む能力が低い少女たちはさらに堕ちていく。少女たちは売春ワークをおこない、ネットカフェやカラオケなどで寝泊りしながらギリギリの状態でサバイブしていく。 貧困は固定化し、最貧困女子となる。

 読んでいて目まいを感じる。

 著者は同じ売春または風俗業労働にしても、セックスワークと売春ワークと定義を分けている。セックスワークは18歳以上で業者と正式に契約を結んでいるもの。売春ワークは生きるためにとにかく体を売っているもの。売春ワーカーは収入も安定せず、容赦なく搾取される。

  地方都市で事務の正社員として働きながら週に一度デリヘル嬢として働く愛理さんが印象的だった。正社員としての愛理さんの年収は150万円程。低所得層だが彼女は「地域の縁」に強くつながっており、同じ低所得層と協力しながら満足度の高い人生を送っている。いわゆる「マイルドヤンキー」系生き方である。愛理さんは風俗で働いてることにまったく後ろめたさを感じていない。それどころか女を売ることに対して誇りさえ感じている。商品としての女を磨くことも怠らず、プロ意識さえある。低所得でもたくましく、人生の満足度は高い。

 著者は、愛理さんにある最貧困女子のことを話す。子どもを2人抱えDV夫を追い出し、精神を病みながらセックスワークの底辺売春ワークをしている女性のことをどう思うのかと聞いてみる。すると愛理さんの反応は「子供生んで出会い系で売春とかは、やっぱ意味分かんないですけど。ブスでもデブでも行ける風俗あるじゃん?」「単にズボラ」「我がまま」「そういう人が子供産んじゃヤバくね?」というものだった。

 貧困層が拡がると最貧困女子は見えなくなる。低所得でも地縁や自らの努力でそれなりの幸福な人生を送る愛理さんたちから最貧困女子は批判の対象となる。セックスワーカーからでさえこうである。売春や風俗に根強い差別意識をもつ社会全体からは攻撃対象になる。この差別意識や糾弾が最貧困女子たちが生活保護を受けるのを思いとどまる理由にもなっているだろう。

 著者は最貧困女子がどうやって生まれるかの過程を丹念に綴り、複雑化するセックスワークのなかで見えなくなった最貧困女子の可視化を試みている。そして、貧困や虐待の連鎖にからめとられていく少女たちをどの時点で救うべきか、セックスワークと売春ワークを明確に分けるためにセックスワークの「社会化」などを提言している。 セックスワークの「社会化」については実現性も含めて首を傾げざるをえないところもあるが、この著者の問題を放ってはおけないという熱意は伝わってくる。暗い話ばかりで救いのない著書で、この熱意だけがあたたかい。

 貧困女子たちの恋愛依存体質をケアするための「恋活のシステム化」は興味深かった。著者はこの提言をフェニミズムを念頭に「炎上覚悟の爆弾」と書いていたが、「システム化」をどのように行うかによるだろう。というよりも、この分野に関してはフィクションで語られるものだと思う。議論云々よりも創作者が仕事をするべきだろう。

 以下雑感。

 ハンナ・アーレント『人間の条件』に「苦痛には単位が無い」ということが書かれている。苦しいとき、痛いとき、わたしたちは「苦しい」「痛い」あるいは「悲しい」と言葉で伝えることができる。しかし、それが実際どれほど苦しいのか痛いのかを示す単位は2015年現在まだ確立していない。

  「EGS-zs8-1」は、地球からもっとも遠い銀河として最近記録を更新した。地球を離れること130億光年、宇宙が生まれたばかりのころから存在する銀河である。130億光年というのは、光の速さで130億年かかる距離である。光速は、毎秒30万キロメートル、である。と、いったいそれがどれだけの距離なのか、想像することすら困難であるが、それでもいちおう、うしかい座の方向の遙かかなた 「EGS-zs8-1」とわたしたちとのあいだの距離は単位であらわすことができる。一方、わたしたちはすぐ傍にいる人の苦しみ、痛み、悲しみをはっきりと知ることはない。知る方法が無い。

 グリーンゲイブルズに住む少女の「想像力よ、なによりも大事なのは想像力なのよ」という言葉をわたしはいつも胸にしまっている。このつらい現世を生きていくのに、130億光年を超える途方もない距離をそれでも歩いていこうとするときに、圧倒的な無理解・無関心を前に思考が停止してしまうようなときにも、赤毛の少女の声にしたがってわたしは「想像力」を捨てない。わたしは生に、老いに、病に、死に手紙を書く。また、別れや憎悪や貧困や、思い通りにならないあらゆる苦しみと痛みに向けて恋の手紙を書く。

2015年5月15日金曜日

ルポ 中年童貞

 『ルポ 中年童貞』中村敦彦を読んだ。衝撃的な内容だった

 著者は企画AV女優を取材した「名前のない女たち」シリーズを手がけた有名ライターで、その後高齢者デイサービスの運営に携わっている時に同じ職場で働いていた“モンスター”中年童貞と出会い、本格的に中年童貞の取材を始める。

 中年童貞の実態は、わたしがなんとなくイメージしていたものからそれほど離れてはいない。が、分類するとそれぞれに特徴が違う。

 この著書に出てくる中年童貞の性愛の対象はすべて女性である。しかしかれらは、あるいは容姿、あるいはコミュニケーション能力の欠如、あるいは男としての自信のなさなどがわざわいして生身の女性からは一顧だにされない。そしてかれらは、劣った自分を客観視できない。あるいは意識的にしない。というわけで、性愛の対象は生身の女性以外になる。

 アニメ好き派。アイドル好き派。に分かれる。

 どちらにも共通するのは異常なまでの処女信仰である。 性体験のある女性に対しては「生ゴミ」「肉便器」などと激しい嫌悪を感じる。さらに「人間じゃない」とまで思う。この傾向はアイドル好きよりもアニメ好きにより強く、生身の女性の裸体を見て、皮膚に毛穴があることで嘔吐することもあるというエピソードも紹介されている。

 中年童貞の出自も大きく分けると、高学歴である程度の定職をもっているか、あるいはそうでないかに分かれる。そのどちらも不遇の自分自身を受け入れることができず、歪んだ攻撃性をもっている。高学歴タイプはある程度自分を客観視できており、自分を受け入れることができない劣った自分に気がついている。そのためかれらは抑うつ状態に陥ったり、自傷行為をしたりする。中には異性に絶望し、同性愛の世界に逃避するエピソードもある。性同一性障碍者だと自分自身をも騙そうとし、ハッテン場に行き、同性と関係をもつ。

 そうではないタイプ、学歴も低く、社会的な能力も極端に低い中年童貞は、この著書の中でもっとも暗い、闇のような存在である。“モンスター”であり、著者が介護の職場で酷い目に合わされた人たちである。かれらは、自分自身がまったく見えていない。自分が原因となったトラブルが頻発してもすべてを他人のせいにする。自分より弱い立場の人間に対しては容赦の無いイジメを行う。

 中年童貞を取材しながら、著者は、性というごくパーソナルな問題に、社会構造の歪みがあらわれているのではないかという仮説を立てる。家父長制の弊害、核家族化、自由恋愛市場の中でだれからも見向きもされず歪んでいく男女、などに目を配りながら、中年童貞を社会全体のリスクとして捉えていく。

 ネトウヨ中年童貞宮田さんは、本書の救いというか、唯一の明るさである。定職ももたず、生活するのに最低限の仕事だけをして、アニメと好きな読書三昧の日々を送るかれは、ある読書会への参加をきっかけに、本人曰く「奇跡的にリハビリ」を果たす。韓国に対する罵詈雑言はあいもかわらずながら、自分を相対化し、客観視し、中年で童貞であることを笑い飛ばせるまでになっている。読書会で生身の女性とのコミュニケーションも頻繁に行うようになっている。エピローグでは、「もうすぐ初体験を済ますかもしれないネトウヨ宮田氏」と小見出しがうたれている。

 以下、感想。

 中年童貞たちにくらべると、わたしはものすごくまっとうで、リア充である。 が、人見知りであること、そんなに低くもないが決して高くないコミュニケーション能力であること、人前に立つのがいやでいやでたまらないことなど、かれらと相通ずるところもある。正直、シンパシーがある。そんななかでも、人が成長するのは、社会的に自立する能力を養うのは、人と人の間にいるしかないのだと思う。悩みながらも、自分を社会の中で相対化し、客観視して自分なりに前に進もうとすること。そしてそれを続ければ必ず成長するのだということを、いやでいやでたまらないことを何の因果か生業にしている自分のいまの現実の中で、不惑に届こうという年齢にしてようやく気づくきょうこの頃である。

2015年5月12日火曜日

音楽と礼儀とラップと韻文と声、そして散文

 こういうツイートを見つけて、気になった。以下引用。

 

昨日のインタビューで、どうして我々音楽家は「戦争反対」とか、そういう夢想家と呼ばれるようなことを言うのかという話題になりました。それでふと口から出たのは、複数の人間で音楽を演奏をしていると、趣味や出自が違っても、信じられないくらい幸福な瞬間があるんだと。それを知っているからだと。Gotch 8:55 - 201558


  中国で組織的な音楽を教えたのは黄帝だといわれている。ウィキペディアによると生没は紀元前2510年~紀元前2448年、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。黄帝は、それぞれ異なる楽器を演奏し人の心を動かす音楽を作る過程を教えることで、共同体がうまく機能する要諦を伝えたのだという。

 わたしは楽器を何ひとつ操れない無粋な人間だからこういうエピソードを聞くと単純に羨ましくなる。生まれ変わったら、もしもピアノが弾けたならなどと思う。あるいは気の済むまで思い切りオーボエを吹いてみたいと思う。いや、やっぱりピアノがよい。ブレイクビーツに乗せて高音のキーをポロンポロンと自在に奏でてみたい。

 それはさておき、孔子がこういう言葉を残している。以下引用。

 

そもそも書かれた言葉は、口頭で語られる言葉ほどには意志を伝えるものではない。そして、口頭で語られる言葉は、書かれた言葉ほどには意志を伝えるものではない。話し言葉と書き言葉の間には大きな隔たりがある。

 

 わかったようなわからんような言葉だが、文字あるいは言葉の特徴を言葉あるいは文字で捕まえようとするとこうなるのだろう。先に述べた音楽とのつながりでわたしなりに解釈するとこうなる。「音楽は表現として完全である。言葉あるいは文字は常に半分だけ顔を見せる。半分は隠れている。あるいは隠している。意図するにしろ、せざるにしろ、常に半分は陰に覆われている。」

 孔子は、『論語』のなかで「詩」を学べと弟子たちに何度も繰り返し言っている。以下引用。

 

詩、三百、一言以ってこれを覆えば、曰く、思い邪(よこしま)無し

 

 20世紀に生まれたラップは、始め音楽のビートだけを取り出した誰かの思いつきであった。 そもそも始めには異なる楽器を奏でる集団の基底にあるリズムがあった。そのリズムに乗せて言葉あるいは文字を語るMCは添え物として存在した。しかし、たちまちのうちにビートとMCの重要性は入れ代わった。原因は「意志」である。音楽には「意志」はない。音楽には、言葉あるいは文字で名付けられるような目的は無い。音楽は伝えるものではない。いや、音楽は伝えるものである。しかし、音楽は伝えるものでありがなら、その場に瞬間として存在するものである。瞬間として人々に伝えられ、瞬間として消えてゆく。音楽は調和であり、幸福である。

 「複数の人間で音楽を演奏をしていると、趣味や出自が違っても、信じられないくらい幸福な瞬間がある」 という音楽家の言葉は、20世紀に生まれた音楽の一ジャンルであるラップと並べてみると興味深い。

 現時点では、 ラップはMCが主導権を握っている。ビートに乗った言葉(文字)が脚光を浴びている。語られる言葉、書かれた言葉がブレイクビーツに乗って人々の耳に意志を届けようとしている。

 しかし、 そこで語られる言葉、書かれた言葉はどういうものか。批判。怒り。ディスり合い。嫉妬。限られたパイを奪い合う罵り。大声。ヘイト。性差別。ちっぽけな身を守る愚痴。「幸福な瞬間」 を語る音楽家と言葉に執着するラッパーとの違いは非常に興味深い。ラッパーは音楽には感謝の念を隠さない。しかし言葉には容赦無い。自分の身を切るように言葉の中に見えない敵を探して身悶えする。とはいえ、ラッパーの語ろうとする、記そうとする言葉は美しい。いちおう、かれらはルールを守っているから。韻を踏んでいるから。 

 

思い邪(よこしま)無し 

 

 ラップは音楽と言葉の狭間にある。 詩とは、言葉・文字が音楽に近づこうとする試みなのかもしれない。反対に、言葉から音楽を取り去ったらどうなるか。言葉が機能だけになったらどうなるのか。散文というのは、韻文の対義語であるが、「散」という文字には侮蔑の意が込められている。「韻」よりも格下ということである。言葉が音楽を忘れ、韻も踏まずただ語られ、あまつさえ声も失い、主体も消してしまったらどうなるのか。具体例はそこいらじゅうに、インターネット空間に転がっている。肝に銘じなければならない。

 

○○参考&引用『漢字はすごい!』山口謠司

2015年5月11日月曜日

日本の猿の子どもの名前は「シャーロット」

 高崎山自然動物園で英国王女にあやかって子ザルの名前を「シャーロット」にしたところ批判が殺到したという件について、天皇制とからめて思うところがある。

 2年前にメロリンQこと山本太郎議員が陛下に原発関連の手紙を直接渡して大バッシングを受けた事があった。その時、わたしはメロリンQの主張はさておき、直訴という行為自体には何ら問題を感じなかった。この事件について、詩人の及川俊哉氏は以下のようなツイートをされていた。

 

山本太郎問題なんかも法律とか政治の問題というよりは、民俗学的課題を提示してるんじゃないか。日本人が考える神聖なものへの接近の手続きを踏んでないということが紛糾のタネなんだろう。8:27 - 2013114

 

 この分析は興味深かった。日本人の深層には、天皇は聖なるもので、正当な手続きを踏まずに聖なるものに近づくものは“穢れ”であるという感覚があるのだろう。バッシングの背景にはこの“穢れ”への嫌悪があったのだろう。

 ということを示唆されながら、同時に、わたし自身にはこの感覚がほとんど無いということにも気付かされた。及川氏の言う「民俗学的課題」という観点からすると、わたしは民俗的に埒外の住民ということになる。これは別にわたしが反天皇主義者という意味ではない。天皇陛下や天皇家に対してわたしは親しみを感じている。ものすごくというほどでもないが、普通に好きである。

 それはさておき。

 今回の件は、「王」に対する日本とヨーロッパの感覚の違いを浮き彫りにしている。イギリス王室のこの件に対するコメントは「どーでもいい」というものだった。それを受けて大分市も猿の名前は「シャーロット」にすると決めている。

 名前云々についてはわたしもどうでもいい。気になるのは「英国王室に失礼」「なぜ騒動になりそうだとわからずに付けたのか」「英国との関係が悪くなったらどうするのか」という批判の背後にある日本人的な感覚についてである。メロリンQの件で「法律とか政治の問題」とされていたように、今回の問題についても批判は、礼儀、倫理、外交上の懸念事項として論理が立てられているように見える。しかし、実際背後にあるのは日本人の宗教的感覚である。聖なるものを中心に置いた独特な感覚である。独特というのは、つまりローカルなものである。

 日本が無宗教であるというのはまったくの欺瞞であるというのは笙野頼子氏が指摘する通りで、天皇を中心とした神の国という感覚ははっきりある。メロリンQと子ザルの名前に関するあれこれはその表出である。そのこと自体はいい。独特な感覚は、独特な感覚でそれでいい。ただ、このローカルな宗教的感覚を背景にしながら表に出てくるのが、法律や政治、礼儀、倫理や外交といったより大きな枠の、普遍的なロジックなのが気になる。違和感がある。