2023年10月8日日曜日

「タンゴ」食いかけのハンバーグについて

じゃがたらの「タンゴ」は完璧な楽曲である。

 ニ十数年前の或る日の夜、一晩中、東の空が白むまでリピート機能を用いて聴き続けたことがある。多分三百回ぐらい聴いたと思う。

 これを書いている今もリピート機能を用いて、繰り返し聴いて、書いている。

 実に不思議な曲で、色々と不思議なところがあるのだが、もっとも不思議なのは聴いているこちらの感情が、どういう感情なのか、よく解らないところである。よく解らないので何度も何度も聴く。クセになるようなところがあるようである。

 まず、前奏みたいな音がある。べつにキャッチ―なものではなく、ジャズ演奏家が演奏前に試し弾きをするような感じでギターとベースが奏でられ、次にドラムが叩かれ、次にボーカルが「ワンツースリーフォー」と唱える、そしてこの楽曲の主旋律が提示される。この主旋律は、ずっと主旋律のままである。最後まで変奏や間奏らしきものは演奏されない。この主旋律にのせて、ボーカルが歌詞をうたうのである。ただそれだけの、シンプルな楽曲である。

 一般的にひとまとまりの作品には構成というものがあり、序破急とか、序論本論結論とか、あるいは起承転結という構成がある。作品だけに限らず、一般的な人の書き方とか、人の話し方というものにおいても、この構成は必然的みたいな感じに備わる。なんとなれば作品、書き方、話し方というものの目的は人に何かを伝えるためのものであり、この構成の基本を守ったほうがその目的を達しやすいからである。

 しかし「タンゴ」は、この構成というものとは別の次元で鳴っている音楽のようである。かといって、この楽曲は難解なのでもなく、前衛的なものでもない。解らないことは色々とあるが、語られている音も言葉も明瞭である。

 歌詞の内容は、覚醒剤を使用している人の感覚を語っているものである。舞台は都会、東京である。この作者は東京のどこかで「夜を汚そう、白い粉で」と詠っているように、実際に覚醒剤を使用していたのだと思われる。

 舞台は東京だが、この詩を唱える人の声の背後には、首都圏を越えたひろがりがあるようである。その血には歴史の脈があり、全国津々浦々の生活の影が見受けられる。このような表現は、余情と呼ばれ、あるいは余韻と云う。

 さて、

「ゴミの街に埋もれた、食いかけのハンバーグ」

 というのが問題の歌詞である。

 問題というか不思議な一部分である。

 「タンゴ」の歌詞全体には、叙事詩的な意図は見られない。ほぼすべて叙情において作られている。おそらく作者はこの歌詞を作る際、これまで見たり聞いたり、読んだりしたものは一切参考にしていない。作者の興味は、そのときの、自分の感情のみのようである。感情そのものになっており、ゆえに幻想的である。

 幻想というものは誰でももっているもので、たとえば人は訳のわからぬ夢を見る。人の夢の話というものは一般的に退屈で、よくわからないものとされる。というのも、その話の語られる経緯において、一般的に共有される根拠は示されず、突拍子もなく場面が入れかわったり、起承転結の順番も滅茶苦茶であったりするからである。

 「タンゴ」の語りは左の順番である。さいしょから箇条書きにする。

 

1. 都会の空を見上げている(多分主人公が、夜に)

2. 僕といっしょに覚醒剤をやろう(呼びかけている相手は女か、男か、不明、しかし人間であると思われる)

3. しっかり注射しよう

4. ゴミの街に食いかけのハンバーグが埋もれている

5. あなたの手から落ちて地面に吸い取られた(ハンバーグが)

6. しっかり、狙いを定めて、笑ったままで注射をしよう(覚醒剤を)

7. 三つ数える前に、あなたは、天国へと行く

 

 以上である。

これらの歌詞は、言葉としては簡潔、明瞭であるが、全体として何が言いたいのかはよく分からない。メッセージ性が希薄なのである。

中でも、聴取者にとって、箇条4の「ゴミの街に埋もれた、食いかけのハンバーグ」というのが、もっとも不思議な歌詞であると思われる。

というのも、歌詞は、

「あんたの、手から落ちて、まわりめぐって、地面に、吸い取られた」

と続くからである。

「手から落ち」るのであれば、ハンバーグではなくハンバーガーの方が適当な感じがする。一般的にハンバーガーは手掴みで食べる、しかしハンバーグは手では食べない。ナイフ、フォーク、あるいは箸を用いて食べる。その点に置いて疑問が生じるのである。

 あるいは素手の延長としてのナイフ、フォーク、箸を含めての「手」なのかとも思うが、矢張り変な感じは残る。

そもそもこの歌詞は一般的な整合性とは違う次元で作られている、感情であり幻想世界の記録である、しかし、だからといって何でもありというわけにはいかない、もし芸術作品において何でもありなら、形としては何も残らない、作品として成立するからには人として最低限の筋を通さなければならない。

「ハンバーグ」と「ハンバーガー」、どちらが適当なのかは勿論聴取者は分かっている、「ハンバーグ」である。「ハンバーグ」は韻文で、「ハンバーガー」は散文である。

 論理的には「ハンバーガー」の方がふさわしい。しかし、歌としては「ハンバーグ」であることが圧倒的に必然なのである。それは分かっている。その上で「手から落ち」るのが何故「ハンバーグ」なのかと、聴いている身としては考えるわけである。

 もしかすると「あんたの手から落ちて」の「あんた」は子どもなのかもしれない。子どもは手づかみでハンバーグを食べることもある、そしてそれを落とすこともある。

 となれば、箇条2で歌うように、この作者がともに覚醒剤を使用しようという相手は、子どもなのであろうか。もし子どもであるとするならば、子どもには覚醒剤は不要であると思われる、手づかみで食べ物を持つような子ども(二、三歳ぐらい)は、そもそもテンションが高く、感情の流出も自然そのままで、薬物を使用する必要性はない。

 とすると、覚醒剤を必要としているのは、この作品においては作者のみで、子どものようになるために、あるいは子どものように話すために注射をするのかもしれない。

 この歌は韻文である。韻文としては明らかに「ハンバーグ」のほうが適当である。「ハンバーガー」は不適当である。口ずさめば、誰にでも分かる。

 しかし「手から落ちて」という、文章としての論理的な繋がりから考えると「ハンバーグ」は不思議なので、聴取者として筋を通そうと考えると、右の次第になるのである。

そして、その考えは次の思考にも繋がる。

 結論としてこの歌は「天国」となる。天国というのは基本的に死後の世界とされており、これをそのままに捉えるとすると、作者と「あんた(他者)」は薬物注入後、死ぬみたいな感じになる。

 ややこしい話だが、この歌の歌い手は、聞いたところによるとオーバードーズで死んだらしい。その事実が、一見するとこの楽曲にも陰影を与えて、まるで辞世の句みたいな具合になっている。この歌は「死」をうたっているような感じになっているのである。

しかし、この楽曲を何百回と聴いた聴取者としては、異議がある。

というのも受け手には、受け手としての信念というものがあり、

歌は数あれど、

この世は、生きる価値がある、

というもの以外は、聴取者は求めていないし、求めてもいけない。

この世は苦の世界である、そんなことは分かっている、

愛するものと別れる、憎いものと会う、求めるものは得られない、自分の心も体もままならない、

分かっている、

そもそも生まれたことが間違いだ、そんなことも分かっている、それでも生まれたのが聴取者だ、

この世は、生きる価値がある、

嘘でもいい、それを断言するのが作品を残す人の役目ではないのか、筋を通すと、こうなる。

 

歌詞に戻る。

「天国」というのはなにも死後に限らない、天国のようなという比喩表現も成立する場合がある、現世の苦の世界の一瞬であっても、

 音楽というのはそのような「天国」を、その場に、即時的に顕現(けんげん)させる可能性をもっとも持つ表現形式である。だから人は音楽を聴くし、演奏し、歌うのである。

 

 しかしこの「タンゴ」というのはつくづく不思議な楽曲で、聴いているこちらの感情が掴めない、喜びではないし、怒っているのでも悲しいのでもなく、楽しいといえば楽しいが、地味である。

 また、何を言いたいのかもよくわからない。

 説明が少ないので、あまりイメージも浮かんでこない、俳句で云うところの景色が無い。

 何となく見えてくるのは暗い部屋のようである、作者は1人でいる、それだけである。

 それだけなので、それなら今自分のいる部屋と歌の情景はシンクロする、なのでこの部屋にいま鳴っている歌は、まるでこの部屋と、この部屋に居る自分をうたっているようである。

 しかし、だからといってそれが何なのか、よくわからないのである。

 もしかすると、「あんたの、手から落ちて、まわりめぐって、地面に、吸い取られた」という、手から落ちたものはハンバーグではないのかもしれない。

 今気づいた。

 しかし、だからといってそれがどういう意味なのか、全然わからないのである。

令和五年十月八日

2022年2月15日火曜日

コンビニ人間の裏切り…『地球星人』村田沙耶香

 

『地球星人』村田沙耶香(新潮文庫)

 序盤、暗く陰惨な少女時代の描写に気が重くなり、一時中断していたが再開して無事読了。

 自分のことを魔法少女だと思っている主人公は、家族からも周りの大人からも精神的に肉体的に虐待を受けている。魔法少女である自分の正体を明かし、心を開くことのできる相手は、年に一度お盆に会ういとこだけで、彼は自分のことを宇宙人だと思っている。二人は結婚することを誓い合い、この世界で「いきのびる」ことをお互い約束する。

 子ども時代のある決定的な事件が起こった後、妙齢になった主人公へと物語はうつる。特殊な取り決めを交わした伴侶も得、一見人生は小康状態のようだが影はあちこちに漂っており、やがてどんどん暗く深くなってゆく。

 全体的にどこか幻想的で妄想めいた語り方がされており、メタフィクションとはちょっと具合の違う、作りものを意識した筆致である。主人公の感覚としては「幽体離脱」と描写されている。書くのにかなり技術を要する描写だと思うが、文章は非常に明解で読みやすく、透明である。主人公は目の前の現実を舞台を見るように、ドラマを見るように見ており、その様子を語っている。時には笑え、時には胸がキュンとするような美しいシーンもあるが、基本的には陰惨である。舞台を見る彼女の座る客席は暗く、見上げると真っ暗な宇宙につながっている。

 終盤、主人公が席から立ち上がり、舞台に上がると物語はメチャクチャになる。少女の頃、この星で唯一幸せだった祖父母の家で彼女、彼らは自らが宇宙人であることに覚醒し、宇宙人として生きるようになる。むごたらしく、血まみれで常軌を逸しているその営みと行為が、作りものめいた描写で透明に平静に描かれてゆく。

 しかし、この星で「いきのびる」ために彼女、彼らはこうするしかなかったのだろうか。他に方法はなかったのか?

 作者は芥川賞の授賞式で「これからは人類を裏切るかもしれない」というような発言をしたという。『しろいろの街の、その骨の体温の』ファンの自分としては、こんなメチャクチャな結末を書いてこのあとどーするの?という疑問を感じた。これは村田沙耶香ワールドの終末の物語なのか。それともまだ続きはあるのだろうか。

 作者の「裏切り」が胸に残る。

2020年7月15日水曜日

会いに行って 静流藤娘紀行

 藤枝静男を初めて読んだのは『空気頭』で、次に『田紳有楽』を読み、それから目につくものは読むようにした。藤枝静男については、親族の集まりで社会的に地位の高い親戚の叔父さんと二人になって話をすると、すごく真面目で真摯な話ぶりなのだがその内容が異様で、ふざけているのでも不謹慎でも悪意があるのでもなく、極めて変な話を真面目にする変な叔父さんという印象を持っている(いた)。笙野頼子を初めて読んだのはそれから少し後のことで、『水晶内制度』を読み、考え方や世界の見え方が変位変成する経験をした。それから目につくものは読むようにし、『金比羅』も読んで、作者本人には「ゆゆし」と「かしこし」を足して混ぜたような印象を持っている。親族の集まりのたとえでいうと、あの人、今何をしているのか誰もよくは知らない人、という印象がある(印象です)。

 二人の関係については、笙野頼子が藤枝静男に見出されたというエピソードは何となく知っていたし、作品でも藤枝静男への言及があるのには気づいていたが、笙野さんは藤枝静男のファンなんだろうなぁぐらいにしか思っていなかった。文学的な繋がりなどまったくもって気づかなかった。しかし、『会いに行って 静流藤娘紀行』を読むと豈図らんや、お二人は濃ゆい絆に結ばれた、瓜二つともいってよい師弟関係であったことが判明する。どちかというと、弟子の方からの一方的な入門及び師事のきらいがないでもないが、しかしだからこそ藍よりなお青いお二人の関係性がくっきりと目に残る。

 本作は藤枝静男を対象とした論考である。すると、必然的に瓜二つである作者・笙野頼子についての論考にもなる。藤枝静男と笙野頼子は違う人間であり、顔も違えば身体の構造も違う。しかし、私小説、ことに独自手法の“師匠説”においては、二人を同時に語ることが可能になる。同一人物としてではなく、“師と弟子”として二人は瓜二つである。

 藤枝静男が師と仰いだ志賀直哉との関係について、二人は「そっくりなところがあったのではないか(P.81)」と笙野は指摘する。そして「とはいえ最終、志賀さんとは違うところで、彼は完成し別の才能になった(P.95)」と。

 本作では、弟子である笙野頼子が、自分と藤枝静男の「そっくりなところ」を語っていく。気がつくままにれいを挙げると、「他者になり他者になってもなるのはただ自分。(P.23)」「方向音痴(P.26)」「部分集中(P.26)」「『理解』するのはけして理論によってではない。(中略)奇跡を起こすのも同じ、具体的に書かれた文章によってである。(P.49)」「自分は確かに存在したけれど(中略)借り物感があった。(P.93)」「『姉』らしい師匠。(P.153)」(姉!?)「真実の僕。(P.206)」「彼は優しい、というよりなんとなくゆるい(P.280)」「中間的な苦しみを師匠は受けた。(P.280)」「自分が自分らしくあるためには『でたらめ』の中にいるほうがいいと気づいた(P.283)」などなど。

 読んでいると時折目眩がして、笙と藤の境界が曖昧になってくる。そうなるように書いている。とはいえ二人は性欲(藤)、難病(笙)を抱える別個の存在でもある。そしてまた一方は湿疹をかきむしり、一方は金の皮を揉みしだき、かゆみを媒介に融合したりする。このあたりは目まぐるしく、愉快である。

 過去の事実や、資料を根拠にしながらも、師弟の「共鳴」をエネルギーにして、“師匠説”は語られてゆく。

必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分、である。それは千の断片としての自分である。(P.172

 自分の新しい顔に光をあて、発見し、思い出す。 “師匠説”によって書かれたこと。とくに「僕」としての藤枝静男の顔は新鮮だ。新鮮だし、なぜ彼があんなにも真面目に、日常の風景を描写してもどこか異様な文章を書き、さらにそこから「でたらめ」な話をしなければならなかったかがよく伝わってくる。そして「僕」の顔は、笙野頼子の顔でもある。師弟の顔は全然似ていない。が、池に映った面影がある。そのどちらもいとおしい。

 笙野頼子は、藤枝静男に「何の利害もない弱いもののために、号泣する事(P.292)」を教えられた。なんのためにそんなことをするか。それが「自分」であるから、ということなのか。その「自分」を書き続ける私小説とは、なんといとおしいものだろうか。

2015年11月24日火曜日

禁断姉弟 女肉のぬくもり

  首里劇場にて観賞。

  神農家の当主が亡くなり、娘である長女とその弟が残される。当主は「おれはたくさん借金をしているので遺産相続してはならない。神農家はこれにて解散とする」という遺書をのこしていた。主人公である長女は美人でムチムチ、もうすぐ式を挙げようとしている婚約者がいる。弟はシスコンで引きこもり。姉との姦通を妄想しており、結婚式場で自爆テロを行おうと爆弾を用意している。

  その折、遺産を狙って当主の弟夫婦がやってくる。不思議な雰囲気の当主の妹もやってくる。役者が揃ったところでまずは弟夫婦が棺桶前で性交。遺産は借金しかないと知らされた主人公の叔父は、性交しながらこれからの策を練る。彼は、行為しながらでないと考えを巡らすことができない体質なのだ。とはいえ、とくに何も思いつかず行為は終わる。

  その夜、ムチムチ主人公は寿司桶に躓いて転び、棺桶の角に頭をぶつけて気絶する。意識が戻ると、彼女の性格はパッパラパーになっており、父の死で延期することになっていた結婚式を葬式とともに執り行ない、仏前式にしよう言い出す。また、引きこもりの弟に対して、あなたの気持ちには気づいていたとせまり、オーラル行為に及ぶ。弟は歓喜にむせび、果てる。姉は、結婚式の前夜には本番行為をしましょうと約束する。

  次の日呼び出された婚約者は、エロ下着を身につけたムチムチ主人公の姿に驚愕する。こんな女性ではなかったのに。婚約者は卓球のピンポン玉とラケットを常に持ち歩いており、これらの道具を巧みに利用しためくるめく性行為が展開する。婚約者は、胎児のように丸まった姿で主人公に卓球ラケットで尻を叩かれ絶頂に達し、自らの腹に射精する。

  その後、婚約者が主人公の叔母にせまられて行為をしたり、引きこもりの弟が急に奇声をあげて踊り出しウェディングドレス姿の主人公も一緒に踊ったりするうち、主人公は再び転んで棺桶の角に頭をぶつけ、今度は正気に戻る。そこに、当主の妹がついさっき亡くなったとの電話が入る。あの不思議な雰囲気の叔母は実は幽霊だったのだ。

  終盤、引きこもりの弟は義理の叔母で童貞を捨てる。主人公は幽霊の叔母と話をし「わたしのなかにいる、怪物」という台詞とともに作品は幕を閉じる。

  全編において性行為の演出が優れていてとても感心した。飽きない。とくに主人公と婚約者の行為での、卓球の小道具やファンタジックなエクスタシー描写が印象深かった。ピンク映画でボカシやモザイクがあると残念に思うのだが、本作品にはそれはなかった。秘部や毛を映さなくても、撮りようはちゃんとあるのだ。個人的には故神農家当主の弟夫婦の妻役の風間今日子さんのファンになった。

2015年5月24日日曜日

笙野頼子の「所有」について

 笙野頼子作品には現代をアクチュアルに批評し、批判する新鮮なキーワードがたくさん散りばめられている。「仏教的自我」とか「流通」とか「おんたこ」とか。

 「仏教的自我」は、太古から連綿と受け継がれてきて現在もアップデートをしつづける生命の根源からのエネルギーである。「流通」「おんたこ」は、これも太古から延々と繰り返される抑圧の正体を暴く名付けである。というのがわたしの解釈。

 そういった肯定と否定(批評・批判)のどちらにも属せず、まんなかへんでふらふらとしていて、つかみどころのないキーワードに「所有」がある。『金比羅』や『おんたこ三部作』その後の作品を読んでいて、いちばん解らないのがこの「所有」という言説であった。

 というかこの疑問に対する答えは実は何となく察しはついていた。

 「所有」することは、生命の根元的な在り方でありつつ、批判するべき対象でもある。「所有」について語る時、笙野頼子は千葉にある一戸建ての自宅について語っている。「所有」について語るとき、とくに批評するとき、一般論はまるで根拠を持たなくなる。「所有」は、あくまで個人的な経験体験に依拠している。

  数年前に笙野頼子作品を集中的に読んでいた頃、わたしは賃貸アパートに住んでおり、土地家屋はもちろん、貯蓄や株式、車などといった財産は一切もっていなかった。自分が「所有」しているという意識はまるでなかった。わたしは当時、自分は何も持っていないと思っていた。しかし、このことについてしばらく考えていると、自分が唯一所有しているものがあることに気がついた。子どもである。当時、2歳の男の子をわたしは持っていた。この子を、わたしはどこまでもわたしのもであるという生物としての確信を持っていた。 と同時に、その確信は十年もしないうちに反駁され、打ち砕かれ、ふらふらと揺らぐ幻想だということにも気付いていた。と、気付いていながら、それでもこの所有の確信は、わたしが死ぬまで消えない決して消せない確信だと確信した。

 「所有」について、わたしの個人的な経験体験から理解しようとすると、こんな感じになる。子どもを所有しているということは、生きる喜びでありながら、あくまで自分とは別個の生命体に対する権利の侵害でもある。その罪の深さに気付いていても、確信は絶対に変わらない。自分ではどうすることもできない。わたしの両親にしても、いい年した中年男のわたしに対して、いまだに所有物だと見なしているフシはある。フシというか確実にそう思っているだろう。

 肯定と否定、批評・批判と自戒が交差する点としての「所有」。笙野頼子のいう「所有」の構造はこういうものではないだろうか。

2015年5月17日日曜日

見えない最貧困女子を目の前に書くラブレター

 『最貧困女子』鈴木大介を読んだ。昨今拡大する働く女性の貧困層に取材したノンフィクションである。

 著者は、貧困に陥る要因として「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」の「三つの無縁」、「精神障害・発達生涯・知的障害」の「三つの障害」をあげている。 「三つの無縁」、「三つの障害」のうちのどれか一つではなくいくつかの要因が絡み合って貧困を生み出していると考察している。

 なかでも「三つの無縁」をすべて背負っている少女たちは地域から逃げ出すように大都市に出る。頼るものは何も無い。警察や行政に保護されたとしても彼女たちは貧困や凄惨な虐待が待つ家に戻されるだけである。

 大都市の路上には私的なセーフティネットがある。ホストやスカウトなどのセックスワークの周辺にいる者たち、買春目的の男たちである。セックスワーク周辺では少女に住むところや携帯、健康保険などを用意するフル代行業者という存在まである。かれらは低金利で少女たちに融資もする。そして少女たちが18歳になったらセックスワークに従事させ、出資を回収する。青田買いである。私的セーフティネットは少女たちをセックスワークに捕捉する。

 この私的セーフティネットからも洩れる少女もいる。容姿の美醜によって、あるいは 「精神障害・発達生涯・知的障害」の「三つの障害」を負って社会生活を営む能力が低い少女たちはさらに堕ちていく。少女たちは売春ワークをおこない、ネットカフェやカラオケなどで寝泊りしながらギリギリの状態でサバイブしていく。 貧困は固定化し、最貧困女子となる。

 読んでいて目まいを感じる。

 著者は同じ売春または風俗業労働にしても、セックスワークと売春ワークと定義を分けている。セックスワークは18歳以上で業者と正式に契約を結んでいるもの。売春ワークは生きるためにとにかく体を売っているもの。売春ワーカーは収入も安定せず、容赦なく搾取される。

  地方都市で事務の正社員として働きながら週に一度デリヘル嬢として働く愛理さんが印象的だった。正社員としての愛理さんの年収は150万円程。低所得層だが彼女は「地域の縁」に強くつながっており、同じ低所得層と協力しながら満足度の高い人生を送っている。いわゆる「マイルドヤンキー」系生き方である。愛理さんは風俗で働いてることにまったく後ろめたさを感じていない。それどころか女を売ることに対して誇りさえ感じている。商品としての女を磨くことも怠らず、プロ意識さえある。低所得でもたくましく、人生の満足度は高い。

 著者は、愛理さんにある最貧困女子のことを話す。子どもを2人抱えDV夫を追い出し、精神を病みながらセックスワークの底辺売春ワークをしている女性のことをどう思うのかと聞いてみる。すると愛理さんの反応は「子供生んで出会い系で売春とかは、やっぱ意味分かんないですけど。ブスでもデブでも行ける風俗あるじゃん?」「単にズボラ」「我がまま」「そういう人が子供産んじゃヤバくね?」というものだった。

 貧困層が拡がると最貧困女子は見えなくなる。低所得でも地縁や自らの努力でそれなりの幸福な人生を送る愛理さんたちから最貧困女子は批判の対象となる。セックスワーカーからでさえこうである。売春や風俗に根強い差別意識をもつ社会全体からは攻撃対象になる。この差別意識や糾弾が最貧困女子たちが生活保護を受けるのを思いとどまる理由にもなっているだろう。

 著者は最貧困女子がどうやって生まれるかの過程を丹念に綴り、複雑化するセックスワークのなかで見えなくなった最貧困女子の可視化を試みている。そして、貧困や虐待の連鎖にからめとられていく少女たちをどの時点で救うべきか、セックスワークと売春ワークを明確に分けるためにセックスワークの「社会化」などを提言している。 セックスワークの「社会化」については実現性も含めて首を傾げざるをえないところもあるが、この著者の問題を放ってはおけないという熱意は伝わってくる。暗い話ばかりで救いのない著書で、この熱意だけがあたたかい。

 貧困女子たちの恋愛依存体質をケアするための「恋活のシステム化」は興味深かった。著者はこの提言をフェニミズムを念頭に「炎上覚悟の爆弾」と書いていたが、「システム化」をどのように行うかによるだろう。というよりも、この分野に関してはフィクションで語られるものだと思う。議論云々よりも創作者が仕事をするべきだろう。

 以下雑感。

 ハンナ・アーレント『人間の条件』に「苦痛には単位が無い」ということが書かれている。苦しいとき、痛いとき、わたしたちは「苦しい」「痛い」あるいは「悲しい」と言葉で伝えることができる。しかし、それが実際どれほど苦しいのか痛いのかを示す単位は2015年現在まだ確立していない。

  「EGS-zs8-1」は、地球からもっとも遠い銀河として最近記録を更新した。地球を離れること130億光年、宇宙が生まれたばかりのころから存在する銀河である。130億光年というのは、光の速さで130億年かかる距離である。光速は、毎秒30万キロメートル、である。と、いったいそれがどれだけの距離なのか、想像することすら困難であるが、それでもいちおう、うしかい座の方向の遙かかなた 「EGS-zs8-1」とわたしたちとのあいだの距離は単位であらわすことができる。一方、わたしたちはすぐ傍にいる人の苦しみ、痛み、悲しみをはっきりと知ることはない。知る方法が無い。

 グリーンゲイブルズに住む少女の「想像力よ、なによりも大事なのは想像力なのよ」という言葉をわたしはいつも胸にしまっている。このつらい現世を生きていくのに、130億光年を超える途方もない距離をそれでも歩いていこうとするときに、圧倒的な無理解・無関心を前に思考が停止してしまうようなときにも、赤毛の少女の声にしたがってわたしは「想像力」を捨てない。わたしは生に、老いに、病に、死に手紙を書く。また、別れや憎悪や貧困や、思い通りにならないあらゆる苦しみと痛みに向けて恋の手紙を書く。

2015年5月15日金曜日

ルポ 中年童貞

 『ルポ 中年童貞』中村敦彦を読んだ。衝撃的な内容だった

 著者は企画AV女優を取材した「名前のない女たち」シリーズを手がけた有名ライターで、その後高齢者デイサービスの運営に携わっている時に同じ職場で働いていた“モンスター”中年童貞と出会い、本格的に中年童貞の取材を始める。

 中年童貞の実態は、わたしがなんとなくイメージしていたものからそれほど離れてはいない。が、分類するとそれぞれに特徴が違う。

 この著書に出てくる中年童貞の性愛の対象はすべて女性である。しかしかれらは、あるいは容姿、あるいはコミュニケーション能力の欠如、あるいは男としての自信のなさなどがわざわいして生身の女性からは一顧だにされない。そしてかれらは、劣った自分を客観視できない。あるいは意識的にしない。というわけで、性愛の対象は生身の女性以外になる。

 アニメ好き派。アイドル好き派。に分かれる。

 どちらにも共通するのは異常なまでの処女信仰である。 性体験のある女性に対しては「生ゴミ」「肉便器」などと激しい嫌悪を感じる。さらに「人間じゃない」とまで思う。この傾向はアイドル好きよりもアニメ好きにより強く、生身の女性の裸体を見て、皮膚に毛穴があることで嘔吐することもあるというエピソードも紹介されている。

 中年童貞の出自も大きく分けると、高学歴である程度の定職をもっているか、あるいはそうでないかに分かれる。そのどちらも不遇の自分自身を受け入れることができず、歪んだ攻撃性をもっている。高学歴タイプはある程度自分を客観視できており、自分を受け入れることができない劣った自分に気がついている。そのためかれらは抑うつ状態に陥ったり、自傷行為をしたりする。中には異性に絶望し、同性愛の世界に逃避するエピソードもある。性同一性障碍者だと自分自身をも騙そうとし、ハッテン場に行き、同性と関係をもつ。

 そうではないタイプ、学歴も低く、社会的な能力も極端に低い中年童貞は、この著書の中でもっとも暗い、闇のような存在である。“モンスター”であり、著者が介護の職場で酷い目に合わされた人たちである。かれらは、自分自身がまったく見えていない。自分が原因となったトラブルが頻発してもすべてを他人のせいにする。自分より弱い立場の人間に対しては容赦の無いイジメを行う。

 中年童貞を取材しながら、著者は、性というごくパーソナルな問題に、社会構造の歪みがあらわれているのではないかという仮説を立てる。家父長制の弊害、核家族化、自由恋愛市場の中でだれからも見向きもされず歪んでいく男女、などに目を配りながら、中年童貞を社会全体のリスクとして捉えていく。

 ネトウヨ中年童貞宮田さんは、本書の救いというか、唯一の明るさである。定職ももたず、生活するのに最低限の仕事だけをして、アニメと好きな読書三昧の日々を送るかれは、ある読書会への参加をきっかけに、本人曰く「奇跡的にリハビリ」を果たす。韓国に対する罵詈雑言はあいもかわらずながら、自分を相対化し、客観視し、中年で童貞であることを笑い飛ばせるまでになっている。読書会で生身の女性とのコミュニケーションも頻繁に行うようになっている。エピローグでは、「もうすぐ初体験を済ますかもしれないネトウヨ宮田氏」と小見出しがうたれている。

 以下、感想。

 中年童貞たちにくらべると、わたしはものすごくまっとうで、リア充である。 が、人見知りであること、そんなに低くもないが決して高くないコミュニケーション能力であること、人前に立つのがいやでいやでたまらないことなど、かれらと相通ずるところもある。正直、シンパシーがある。そんななかでも、人が成長するのは、社会的に自立する能力を養うのは、人と人の間にいるしかないのだと思う。悩みながらも、自分を社会の中で相対化し、客観視して自分なりに前に進もうとすること。そしてそれを続ければ必ず成長するのだということを、いやでいやでたまらないことを何の因果か生業にしている自分のいまの現実の中で、不惑に届こうという年齢にしてようやく気づくきょうこの頃である。