2012年9月20日木曜日

ピンク映画3本立て@首里劇場

十数年ぶりに首里劇場に行ってきた。

 

二度目の訪問となるが、前回の記憶は客席が真っ暗で怖かったということ以外ほとんどない。

今回はじっくり、地元にある沖縄最古の映画館を堪能するべく、平日の昼間から客席の闇に身を沈める。

昭和ノスタルジーというより、忘れられた廃墟のような館内の暗闇の隅に、影絵のように人の気配がする。

ほかにもお客さんがいたんだ、と安心するような、ちょっと怖いような。


派遣ナース おまかせ速射天国

病院が舞台。まず、理事長である熟女と理事長お気に入りの医者のおじさんが理事長室で性交している。若い看護婦さんが二人出てくる。若い看護婦さんたちは同僚の若いお医者さんに欲情していて、何とかしてやっちまおうと姦計をめぐらす。看護婦A子は、宿直の夜に若いお医者さんとやろうとするがおじさん医者の方と性交する。熟女理事長には息子がいて極度の女性恐怖症でマザコンで部屋にひきこもっている。看護婦A子がその世話を頼まれる。息子は最初はげしく拒否反応を示すが、A子がジョギングに連れ出したりして元気になって性交する。もう一人の看護婦B子と若いお医者さんもホテルで性交する。などなどの行為を経て登場人物はだいたいみんなハッピーになって、終わり。

 

特命シスター ねっとりエロ仕置き
SMの女王様をしている主人公は借金取りに追われて教会に行き神父に相談する。神父は、主人公の巨乳およびムチムチフェロモンを見込み、特命シスターに任命する。セックスレスの夫との関係の寂しさからホストクラブに通うようになり、そこでで知り合ったホストに強姦され、そのことをネタに脅迫されているという主婦がシスターのもとを訪れる。特命シスターは性行為をしつつ問題の解決に取り組むうち、主婦の夫があの借金取りであることを突きとめる。借金取りには若い愛人がおり、妻との離縁を目論んでいた。ホストを使って強姦させたのは夫である借金取りの仕業だった…いや、そして最後にどんでん返しが!

コメディタッチの楽しい作品。

主婦がホストとの行為中に撮られたという写真を見て、

「ハメドリ、デスネ」

と言う神父の台詞が印象的。

 

三十路の女 巨乳はじける

今回観た中では随一の出来。ストーリーの完成度が非常に高い。

主人公はラジオの女性パーソナリティ。番組が打ち切りになり傷心のまま故郷に帰る。番組のディレクターである男も仕事を辞め、主人公の後を追う。主人公、主人公の姉、主人公の女友だちとその周辺を描写しつつ、性行為もしつつ、物語は進んでいく。

元ラジオディレクターの男の人物設定が魅力的。いい年したおじさんだが、田舎で農場の手伝いをしながら主人公への想いを持ち続け、一途に彼女を支えようとする。演ずる俳優の演技力におどろいた。岩谷健司という役者さんらしい。台詞まわしの安定感や髭面の存在感が群を抜いている。

男は主人公をラジオの世界に復帰させようと奔走する。そしてそのことで自分の愛情を主人公に伝えようとする。その姿に思わず胸が熱くなってしまった。


ピンク映画は全然知らなくて、ちゃんと観たのは今回が初めてといってもいいぐらいだが、思ったのは性行為の描写は果てしなく退屈だということだ。 ピンク映画館に入って、見に来ているのは性行為のはずなのだが、いざ始まるとやることはだいたい同じ、触って、揉んで、舐め、入れ、出し、ぐらいだ。見ていて間がもたない。正直、眠くなる。

開高健が19世紀の英国の長大なポルノ手記『My Secret Life』を評して、最初は喜んで読んでいたがそのうちうんざりして次第に意識が朦朧としてきたというようなことを云っていたが、21世紀のポルノ鑑賞にいたっては最初の喜びもどれほどのものか怪しいものだ。

ピンク映画は性行為の描写がメインとなるが、その表現は根本的に退屈なものである。が、中にはすぐれた作品もある。『三十路の女 巨乳はじける』みたいのが観られるのならまた行きたい。

2012年9月14日金曜日

ブロディーの報告書

『ブロディーの報告書』J.L.ボルヘス 鼓直 訳

 

作者は鬼面ひとを脅すバロック的なスタイルは捨てた。また予期しない結末によって読者を驚かすこともやめた。要するに、作者は意表をつくことよりも徐々に期待を盛り上げることを選んだのだ。 (まえがき)

 

と、例によって持ってまわった調子でボルヘスは語っている。作者晩年のこの短篇集は、難解だ晦渋だといわれているボルヘスの作品とはいささか違うらしい。読み易く、ボルヘス入門に最適だという評もネットで見た。

この「~入門に最適」という評価はちょっと注意が必要である。なにをもってボルヘスの入門とするか、またそれが最適であるかの基準を決めるのはむずかしい。入門書というからにはこの作品集を読んでのち、読者はボルヘスに興味を持ち、さらにほかの著書に手を伸ばすことが好ましい。

『じゃま者』から始まって『卑劣な男』 『ロセンド・フアレスの物語』『めぐり合い』『フアン・ムラーニャ』まで作品の内容は“ガウチョ”と呼ばれるならず者であり義侠の世界に生きる南米版カウ・ボーイたちの活劇である。坊ちゃん育ちでインテリのボルヘスはガウチョが大好きだ。他の著書にもガウチョものは見られるが、本書ではこのガウチョ活劇が前面に押し出されている。しかも「バロック的なスタイル」は捨てられ、衒学的衣装を脱ぎ去って語られる。ひとつひとつの作品は短いので、ボルヘスのスタイルが除去されるとあとに残るのは限りなく活劇のあらすじに近くなる。

これ、面白いか?

それまでのスタイルを捨てた「作者もボルヘスであることへのあきらめの境地に達した」と自身で語るこれらの作品はある意味印象深い。中上健次原作の漫画を酷評したアンチ文学の評論家の文章などを思い出したりする。

続いて、『老夫人』 『争い』『別の争い』『グアヤキル』は、『別の争い』をのぞいてガウチョものではない。上流階級の娘や芸術家、大学教授などが登場人物。

さらに続いて…ようやく…

全体でもっともできのよい「マルコ福音書」(まえがき)

と、作者が自信をもつ『マルコ福音書』は、その次の、短篇集のラストを飾る作品であり本書のタイトルでもある『ブロディーの報告書』と同じく、読みごたえのある、いかにもボルヘス的な味わいの名編である。題材は聖書、ガリバー旅行記とベタなもの。「バロック的なスタイルは捨て」「読者を驚かすこと」もやめているが、書きっぷりはまさしくボルヘスである。

最後まで読んで、なるほど、と思った。入門に最適という評にもなるほど、と。途中でやめずに(わたしはしばらく読みかけのまま放置していた)最後まで読むべし。

2012年4月5日木曜日

沖縄映画ベスト3

1.『ウンタマギルー』(高嶺剛/1989

今のところ不動の一位。本土復帰前の体験していない沖縄の、しかしそれほど過去でもない時代を幻想的な映像で描きつつ、そこここに生々しい現代史が流れている。

印象的なのがキジムナーの演出で、森の中に少し変わった格好のおじさんが立っていて、主人公に声をかける。ウンタマギルーは振り向いて「お、キジムナー」と応える。妖怪を登場させるのにこんな呆気ない表現でもいいものかと当時驚いた記憶があるが、後から思うにマジック・リアリズムというやつだったのかもしれない。

あのキジムナーの存在感と、自分の中の「沖縄」とはよく似ている。テレビ放送とビデオでしか観たことがないので是非一度スクリーンで体験したい。

 

2.『ソナチネ』(北野武/1993

北野作品で一番好きな作品。

ストーリーはこれといってなく、組織からはみ出てしまった人間が破滅への道を突き進んでいくというそれだけのテーマで全篇を貫き通し、リリカルな映像を綴っている。

劇中の都市部は自分の見てきた沖縄の風景とほぼ同じでありながら、また映画的でもある。道路に、建物に、停まっている車に容赦なく降りかかる真白い陽光は幻想的で、それらをあますことなく写しているフィルムは貴重だと感じる。

北野映画の魅力は細部のリアルさと全体の幻想性のバランスだと思うのだが、この作品以降これといって良いものが無いのは残念。

ちなみに、主人公がマシンガンを手に殴り込みをかけバンバン撃ちまくるというシーンに使われたホテルで結婚式を挙げました。

 

3.『ベスト・キッド2』(1986

舞台は沖縄ということで、前作のファンでもあったので楽しみにして観たのだが、映っている場所は「どこだここ!?」 であった。

もしかするとコザ辺りにはいまだにこんな場所があったりするのかしら、いやまさか、しかしこんなのが沖縄だと思われては困るなあ…などと考えたりしたものだが、沖縄で撮影されたものではないと後から知った。

場所にこれといって思い入れもなくイメージだけで作るとこうなるという見本のような作品。

この類の粗雑さを避けるためには、実在の土地だけでなく架空の場所についても注意を要することだろう。

 

以上、ベスト3と銘打ってみたが、いま思いつくのが3本だけなのでこういう結果になりました。逆順にするとワーストにもなります。というか、3位はワースト1です。沖縄に関係する映画はきっとほかにも観ているはずなので、思い出したり、またあらたに観たりしたら内容更新します。

2012年3月14日水曜日

アレクサンダー大王

『アレクサンダー大王』(テオ・アンゲロプロス/1980)新文芸坐で鑑賞。

てっきり時代劇かと思っていたら、舞台は20世紀が始まったばかりのギリシャ。アレクサンダー大王を自称する男が義民を従えて蜂起するという話だった。

上映前、プリントの状態が悪いというアナウンスのあった通り画面は赤く焼けてたが、それでもアンゲロプロスの画はやはり圧巻。そして、長い…。

長い長い長い、長い長い長い長い長い。長い長い桟橋をゆっくり歩くように、痺れを切らして走ろうと思ってもそうはさせてくれず、カメラはあくまで執拗に目の前の風景を記録しつづけ、鈍重に視点を360度めぐらせる。直前に食べた牛丼が祟ったかどうしようもなく眠くなる。なす術もなく、2度ほど寝る。

というわけで、内容については認識が欠けているところがある。強大な影響力を持つ外国と自国の政府に叛旗を翻したアレクサンダー大王を中心とする共産主義およびアナーキズムを思想的背景にもつ集団の闘争は、始めのうちうまく行くようにも見えるが、そのうち崩壊してゆく。それも内部から。カリスマ的リーダーであるアレクサンダー大王の行動は混迷し破綻していき、民衆は大地主から土地の権利を奪還したとたん所有をめぐって激しく争いはじめる。その中でも、集団の熱い支持を集めていたアレクサンダー大王が突如として恐怖政治を敷く独裁者に変貌するさまは目を見張る。何故そんなことになるのか理由が解らない(寝てたからかも知れない)。ロジックが破綻していて、しかしその生態はリアルである。絶望感に満ちた映画だと思う。

アンゲロプロスの長回しは賑やかだ。楽団がよく出てくるし、踊る人や騒ぐ人、集団を好んで撮る。しかし、その視点は賑やかさに没入することなく、一歩引いて、悲しげに、執拗に見つめ続けている。そして、その静かな視点を取り囲む寒々とした自然、廃墟と生活が入り交じったような奇妙なコミューンの建築物(まさかあれはセットなのか?)。天才的なロケーションの嗅覚と、物や人や動物を映して異物に変容させてしまうような画こそがアンゲロプロスの最大の魅力だとあらためて感じる。長回しで寝たからといって鑑賞になんら支障はないのだ(言い訳)。

今年が始まってすぐ、新作の撮影中にバイクではねられて亡くなるという最後を迎えたアンゲロプロスに蓮實重彦が追悼文を寄せている。その中に、名前は伏せると前置きし、未完の遺作を完成させるべき監督は日本人の中にいるとある。誰だ。アンゲロプロスの特徴的な画から考えると、やっぱり黒沢清なんでしょうか。

ちなみに、本作を観ながら、タランティーノがリメイクしたら面白そうだなと思った。現在製作中の『Django Unchaind』とか、こんな感じじゃないのかな。どんな感じだよ。

2012年3月12日月曜日

ニーチェの馬、雑感

書き残したこと、あとから考えたこと。

この映画は、神が6日間で世界を造ったという起源を逆にして、世界の終わる6日間を描いたものだそうだ。そして、タル・ベーラという監督の最後の作品でもあるらしい。

その最後に終末を撮ったのはなぜか興味がある。といっても、監督の個人的な理由とこの映画のテーマの連関についてではない。タル・ベーラの映画を観るのは初めてだし、終末を描いた映画はほかにもある。気になるのは、この映画で描かれる終末がとにかく徹底的に終わっているからだ。

徹底的に終わっている終末を撮る意味は何か。あのラストシーンの後の親娘の運命は、おそらく破滅だろう。そしてそれを観ているこちらの運命もほぼ同じな可能性が非常に高い。登場人物と観客たちを分け隔てなく待ち構える最終的な破滅を前にして、徹底的に終わっている映画を撮りそれを観る行為とは何なのか。

と考えると、すべてが消えてしまうその直前まで存在しているのは意志なのではないか。記録しようとする意志、記憶しようとする意志。過酷な環境の中で、ただ食べるだけ、ただ寝るだけの生活を延々とつづけるしかない人間が終末を前にして最後の最後に頼るもの、当人だけでなく当人を囲む世界全体が依拠するもの。

この映画はたぶんもう二度と観ることはないんじゃないか。ソフトは発売されるだろうが、家庭用のモニターではまず場が持たないだろうし、もう一度映画館で観る気にもなれない、と鑑賞中からすでに思っていた。これが最後だなと思いながら気合いを入れて観た。にもかかわらず、途中、数分ほど寝た。親娘が家を捨ててどこかに行こうとし、また戻ってくるシーン。

YouTubeで東京フィルメックスでのタル・ベーラのインタビューを見た。身振りが大仰な勿体ぶったおじさんだった。観客の質問に答える言葉が懇切だった。

娘が流れ者から貰う書物、あれはルターの著作なのかな。既存の宗教を弾劾するような内容だったけど。

以上、雑感。

2012年3月4日日曜日

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』とIMAXと

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード/2011IMAXデジタルシアターで鑑賞。

IMAX初体験@としまえん。スクリーンの高さ、視野に覆い被さってくるように横にひろく湾曲する画面。本編の始まるまえに流されるIMAXとは何ぞやという能書き映像や予告編からしてすでにワクワク、およびドキドキがとまらない。幼少の頃に映画館に連れて行ってもらい、ポップコーンを食べながら緞帳の下りた(記憶では昔の映画館には緞帳があった)舞台前面を見上げていた感覚がよみがえってくる。

そして始まった本編も、幼い日の体験を裏切らないアクション映画を観る喜びに満ちたものだった。ストーリーは至極明解。悪の親玉がちょっとどうかと思う思想を背景に世界を破滅的な状況に陥らせようとするが、それがあまりにも常識外れなので常識的な人たちの組織は機能しなくなる。というか、悪の親玉の思惑通りに殺し合いが始まろうとする。世界の危機を阻止するべくイーサン・ハントを中心とする、たった4人のチームが奮闘する!

世界一高いドバイの超高層ビルを舞台にした高所アクション、砂嵐の中の追走劇、そしてお約束の絶体絶命のクライマックス。手に汗を握って画面を見つめたのはいつ以来だろう。

最近のトム・クルーズを見ていると、『ラッシュアワー』の頃のジャッキー・チェンを見るような気がする。輝かしいキャリアを積んで年は食っているけど、今が一番おいしいのではないかな。やや垂れ下がった大胸筋や後姿の腰周りとか…ごくり。

2012年2月25日土曜日

『ザ・ウォード 監禁病棟』『ゴーストライター』感想

早稲田松竹にて鑑賞。

思ったよりも小ぎれいな映画館。最近改装したって感じの。入ったときは「スクリーンちいさいかな」と思ったが、席に座って 映画が始まるとそんなことはなかった。席の前のスペースもたっぷりとってあるし、居心地がよかった。

 

『ザ・ウォード 監禁病棟』(ジョン・カーペンター/2010

話としてはあまり好きじゃないパターン。この手のものは本当に騙されないと納得できないし、もう何度も見てきたので、飽きてます。

しかし、この映画はストーリーがどうの、こうのというのでもないですね。恐怖と痛覚の描写、観客をビックリさせようという演出はさすが。精神病院の隔離病棟に若くてピチピチの女の子ばかりがいるという設定も楽しい。

観た後で人に聞いたのだが、この女の子たちの一人がメリル・ストリープの娘だという。言われてみれば似てる。ちょっと残念な遺伝かもしれないけど。でも、演技はうまかった。

 

『ゴーストライター』(ロマン・ポランスキー/2010

よくできたサスペンス。ウェルメイド。なので、とくに云うことはなかったりする。

作中、主人公が雨宿りに民家の軒先を借りていると、老人が家の中から出てきて「英国人か?」といろいろ話し出すシーンがよかった。おじいさん、表情がほんとに楽しそうだった。

2012年2月20日月曜日

引っ越し準備

引っ越しとなると一番めんどうなのが書籍だ。小さめのダンボール十箱になった。箱詰めするうち、処分しようかどうしようかと迷う本が出てくる。最初のうちはちゃんと考えるがそのうち適当になる。前に引っ越ししてから一度も開いてない本がある。ただのゴミに思えてくる。しかし、少し冷静にふり返ると、読んだ当時の思い出がたくさんつまっていることに気づく。そうなると迷う。

それでも全部は持っていけない。いけないということはないのだが、取捨、選択は避けがたい。引っ越しなのだから。

今回、改めて気づいたのは本ではなくてCDだ。

整理をしていると、CDに関してはここ十年来持っているものは殆ど増えていなかった。買ったものは二十枚にも満たないだろう。それ以外には、CD-Rがごちゃごちゃとあった。音声データを焼いたやつだ。これらは、焼いてから聴いたものなんてほぼない。パソコンのHDDにも入れているから、聴くとしてもそっち経由だ。

CDケースの中で埃をかぶっているそれらを、今回思いっきり捨てた。何のためらいもなく捨てて、捨てて、片端からゴミ袋に入れて捨てまくった。

引っ越しという局面を迎えると、自分にとって何が大事なのかはっきり解るようになる。焼いた音声データは、完全にゴミである。HDDに記録したデータもほんとはそれに近い。ただ、物理的に部屋の中に無いので意識にのぼらないだけだ

聴きたいものは、買ったほうがよい。買った商品は、部屋のスペースを占め、持ち主はその遣り繰りに悩む時間を持つことができる。それを持つことで持ち主は人生の時間を費消し、それだけ人生をふり返る。自分の人生を

CD-Rは、糞だ!!

2012年2月13日月曜日

ニーチェの馬

『ニーチェの馬』(タル・ベーラ/2011)を観る。

荒地に家と馬小屋があり、そこで生活している父と娘がいる。馬がいる。周りには何もない。丘と木と色の失せた土地と落ちた葉があり、落葉は暴風に吹かれて始終動いている。環境は苛酷で容赦なく、日々の生活を同じことを繰り返すことでようやく為し終え、続ける暮らしがある。

荒れ狂う風の中、父が馬車に乗って帰ってくる。娘はそれを迎え、馬を馬車から離し馬小屋に入れる、馬具を片付け馬車を小屋に格納する。それから家に戻り、右手の不自由な父の着換えを手伝い、貧相な台所でジャガイモを茹でる。ランプに火を灯しジャガイモ一つの食事を終えたら、あとは寝る。夜が明けると娘は家を出て、井戸に水を汲みに行く。家に戻ると父が目を覚ましている。父の着換えを手伝う。一日の仕事を始める前に父娘はパーリンカ(焼酎)を飲む。娘は一口ばかり、 父は二杯飲む。二杯目はより多くを飲む。朝の光の下、眼元に陰がさす。そして一日が始まる。

1889
年トリノ、ニーチェは鞭打たれる馬車馬に抱きつき号泣して気を失う。同情はあらゆる悪の根源だと主張した哲学者の最後の正気の姿だった、という有名エピソードがある。ニーチェに抱きつかれた馬はその後家路についた。この映画はそこから始まる。


荒地の父と娘の単調な生活の描写の繰り返しは、一見ニーチェの思想の否定のように思える。二人の暮らしの暗さ、重苦しさに比べれば、ニーチェの超人思想など小利口な青二才の捻り出した屁理屈のように見えてくる。しかし、そう単純な話でもないらしい。

何十年と続いてきた父と娘の世界と時代に、決定的な変化が訪れようとしている。ある日、荒地の家を男が訪れ、パーリンカを売って欲しいと言う。父は男にどうして町で買わないのかと尋ねる。すると男は、荒れ狂う風で町は滅茶苦茶になっていると言う。すべては堕落してしまったと。

一度だけ登場するこの男は、よく喋る。台詞の極端にすくないこの映画の中では不自然なほど喋りまくる。なぜ崇高さが失われたのか、なぜ神々はいなくなったのか、もともと神々などいなかったことに人が気づいたのはなぜか、思いつきで行動する人間が常に勝利するようになり、崇高さを信じ静かに暮らす人々が敗北し続けるのはなぜか。男の饒舌はまるでニーチェの狂言廻しのよう。ツァラトゥストラの偽者そっくりだ。父は男に言う。「くだらない話はやめろ。もう帰れ」と。

父と娘と馬の生活の描写は長い長いワンショットで執拗に繰り返される。井戸、馬小屋、台所、茹でられるジャガイモ、食事、ランプ、風の音。二人の行動は機械のように正確とはいえないまでも、行動の目的は常に同じだ。そして、その行動を捉えるカメラの位置は一日ごとに切り換わる。ジャガイモを茹でている娘の正面からのカットが、次の日には右半身を正面に映し、その向こうにある娘の部屋が垣間見える。単調な生活を映し続けるカメラ割りの変化が、世界のすべてを捉えてしまう豊かな瞬間がスクリーンの隅々までを満たす。その世界は終わろうとしているのだけど。

こんな映画を2012年に観ることができるなんて、と驚いた。昔の映画ではない。回顧上映ではない。2011年に作られた映画だ。これは現代の映画なのだ。

作中の饒舌な男の冗長な台詞は、いろいろ言っているけど頭の中を素通りしてよく覚えていない。が、中には覚えているものもある。「物事はすべてが決まっていて、その通りに進んでいくんだと思っていた。だが、おれは間違っていた」。この続きは、男は喋らせてもらえない。父が追い返したからだ。

「おれは間違っていた」という台詞は、それはそのままこの映画を観た感想でもある。こんな映画が2010年代にもなって撮られるとは思いもしなかった。素直に映画って凄いんだと思った。

「神は死んだ」という有名なニーチェの言葉も、もしかすると。