2020年7月15日水曜日

会いに行って 静流藤娘紀行

 藤枝静男を初めて読んだのは『空気頭』で、次に『田紳有楽』を読み、それから目につくものは読むようにした。藤枝静男については、親族の集まりで社会的に地位の高い親戚の叔父さんと二人になって話をすると、すごく真面目で真摯な話ぶりなのだがその内容が異様で、ふざけているのでも不謹慎でも悪意があるのでもなく、極めて変な話を真面目にする変な叔父さんという印象を持っている(いた)。笙野頼子を初めて読んだのはそれから少し後のことで、『水晶内制度』を読み、考え方や世界の見え方が変位変成する経験をした。それから目につくものは読むようにし、『金比羅』も読んで、作者本人には「ゆゆし」と「かしこし」を足して混ぜたような印象を持っている。親族の集まりのたとえでいうと、あの人、今何をしているのか誰もよくは知らない人、という印象がある(印象です)。

 二人の関係については、笙野頼子が藤枝静男に見出されたというエピソードは何となく知っていたし、作品でも藤枝静男への言及があるのには気づいていたが、笙野さんは藤枝静男のファンなんだろうなぁぐらいにしか思っていなかった。文学的な繋がりなどまったくもって気づかなかった。しかし、『会いに行って 静流藤娘紀行』を読むと豈図らんや、お二人は濃ゆい絆に結ばれた、瓜二つともいってよい師弟関係であったことが判明する。どちかというと、弟子の方からの一方的な入門及び師事のきらいがないでもないが、しかしだからこそ藍よりなお青いお二人の関係性がくっきりと目に残る。

 本作は藤枝静男を対象とした論考である。すると、必然的に瓜二つである作者・笙野頼子についての論考にもなる。藤枝静男と笙野頼子は違う人間であり、顔も違えば身体の構造も違う。しかし、私小説、ことに独自手法の“師匠説”においては、二人を同時に語ることが可能になる。同一人物としてではなく、“師と弟子”として二人は瓜二つである。

 藤枝静男が師と仰いだ志賀直哉との関係について、二人は「そっくりなところがあったのではないか(P.81)」と笙野は指摘する。そして「とはいえ最終、志賀さんとは違うところで、彼は完成し別の才能になった(P.95)」と。

 本作では、弟子である笙野頼子が、自分と藤枝静男の「そっくりなところ」を語っていく。気がつくままにれいを挙げると、「他者になり他者になってもなるのはただ自分。(P.23)」「方向音痴(P.26)」「部分集中(P.26)」「『理解』するのはけして理論によってではない。(中略)奇跡を起こすのも同じ、具体的に書かれた文章によってである。(P.49)」「自分は確かに存在したけれど(中略)借り物感があった。(P.93)」「『姉』らしい師匠。(P.153)」(姉!?)「真実の僕。(P.206)」「彼は優しい、というよりなんとなくゆるい(P.280)」「中間的な苦しみを師匠は受けた。(P.280)」「自分が自分らしくあるためには『でたらめ』の中にいるほうがいいと気づいた(P.283)」などなど。

 読んでいると時折目眩がして、笙と藤の境界が曖昧になってくる。そうなるように書いている。とはいえ二人は性欲(藤)、難病(笙)を抱える別個の存在でもある。そしてまた一方は湿疹をかきむしり、一方は金の皮を揉みしだき、かゆみを媒介に融合したりする。このあたりは目まぐるしく、愉快である。

 過去の事実や、資料を根拠にしながらも、師弟の「共鳴」をエネルギーにして、“師匠説”は語られてゆく。

必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分、である。それは千の断片としての自分である。(P.172

 自分の新しい顔に光をあて、発見し、思い出す。 “師匠説”によって書かれたこと。とくに「僕」としての藤枝静男の顔は新鮮だ。新鮮だし、なぜ彼があんなにも真面目に、日常の風景を描写してもどこか異様な文章を書き、さらにそこから「でたらめ」な話をしなければならなかったかがよく伝わってくる。そして「僕」の顔は、笙野頼子の顔でもある。師弟の顔は全然似ていない。が、池に映った面影がある。そのどちらもいとおしい。

 笙野頼子は、藤枝静男に「何の利害もない弱いもののために、号泣する事(P.292)」を教えられた。なんのためにそんなことをするか。それが「自分」であるから、ということなのか。その「自分」を書き続ける私小説とは、なんといとおしいものだろうか。